ロールモデルになるような、各業界の第一線で活躍している方々をインタビューと年表で紹介するこのコーナー。第2回のゲストは、1990年代に活躍したアイドルグループCoCoの元メンバーで、現在はタレントで料理研究家と活動している宮前真樹さんです。

理工系大学院の修士1年生のときに「サッカーを書くライターになる」と思い立って中退。電気工事業のアルバイト、技術系の出版社勤務を経て自分の“軸”を固めて、1999年にフリーのライターに。ヒッチハイクで日本中を移動しながらのJ2取材を起点に執筆のチャンスをつかみ、育てて、今に至る。
 ◆江藤さんのサイト:   ふっとぼうず
 ◆江藤さんの活躍の場: J's GOAL

「私は人との出会いに恵まれていると思っています」

「この仕事も面白い」と思っていた矢先のある晩、江藤は当時付き合っていた彼女に問いかけられた。就職試験に落ちて、とりあえず電気工事のアルバイトをしていた1996年の夏である。仕事を一通り覚えて、職場にも馴染んできていた。職場で任されたことがきっかけで自作のPC作りにも挑戦し、何かしら新しい道が見えてきたような気もしていた時だった。パソコンをインターネットにつなげて快適に使うには多少の専門的な知識が必要な時代。大学で学んだ技術的な知識と経験とも重なるものがあったのかもしれない。しかし彼女から問われたことは、自分の“軸”が何なのか、だった。「それがあなたのしたかったことなの。文章を書く仕事がしたくて大学院を中退したんじゃないの。」

「私は人との出会いに恵まれていると思っています」

その年の春、理科系の大学院修士課程1年の終わりに、江藤は大学院を中退した。他に自分の進むべき道があるのではないかという漠然とした気持ちがあった。指導教員との気持ちの行き違いもきっかけとなった。何かを書く仕事にあこがれていた。小学校6年生の時に、何をしてもいいという自由研究の授業で作文を書いた。これを読んだ担任は「文章を書くのが上手だね」と褒めてくれた。江藤は、「自分は褒められて成長するタイプ」だと思っている。そして、その“何か”として一番に思い浮かぶのはサッカーだった。雑誌やネットの記事を読みながら、「俺ならばもっとうまく書ける」と感じていた。しかし、大分は、田舎だった。テレビでサッカーを目にする機会も限られていた。子供のころ、ヨーロッパの試合を見ることができる数少ない機会だった伝説の番組「ダイヤモンド・サッカー」も局のネットワークの関係で大分で見るのは難しかった。

ところが、中退を決断する前の年、故郷のサッカーチーム「大分トリニティ」が県リーグ・九州リーグでの戦いの中で、上位リーグのJFLを狙っていることが耳に入った。田舎だと思っていた大分に、全国を目指すチームが出現したというニュースは、江藤を高揚させた。大学進学で逃げ出してきたという後ろめたさを抱えて始めた東京生活の中で、故郷に対する誇りが突然湧き起こったのである。小学生の時に作文を褒められて以来、意識して何かしらを書き続けてはきたが、それを職業にしようと考えたきっかけは、このニュースだったのかもしれない。

大学院は中退したものの具体的なあてがあったわけではない。世間も知らず、何の経験もなく、まずは単純に大手の新聞社や出版社だけを対象に就職活動をした。しかし全て不採用。自分が出した結論は「社会経験が足りない」だった。とりあえず稼いでみようと始めたのが冒頭に出てきた電気工事店のバイトだったのである。始めてみれば安定した収入とそこそこのやりがいが、「ライターになる」と舞い上がった気分を一時的に落ち着かせてくれたのだろう。迷いは安心に絡めとられて、熱意の表面にうっすらと積もり始めていた。

しかし、彼女の一言が迷いを吹き飛ばした。はずしてはいけない“軸”があった。ようやく目が開いてよく見れば、新聞の求人欄には中堅・中小の出版社の求人があふれていた。仕切り直しで再開した就職活動の結果、技術評論社で採用通知をもらう。採用理由をあとで聞いたところでは、PCの自作のマニアックな体験がアピールポイントのひとつになったらしい。脇道で体験したこともすべてが“軸”にうまく合流してくるようにできているのかもしれない。翌年1997年1月から、出版社で編集の仕事を始めた。

「何でも、楽しそうと思ったことは、まずやったほうがいいと思います」

編集の仕事にも慣れその面白さに没入していた1998年6月、日本代表が初めて参加するフランスワールドカップが開幕した。残っていた有給休暇5日間を使って渡仏した。このことを後で知った社長が激怒した。「有休は何かに備えておくものでそういうことに使うものではない。」

この大会で一勝もできずに一次リーグで敗退した日本代表は、次のワールドカップに向けてトルシエ・ジャパンとして再出発し、翌1999年、パラグアイで開催されたコパ・アメリカに挑戦する機会を得た。当然の如く、江藤は今度も5日の有休申請をした。「行くなら辞めろ」と社長に却下されたが、強引に出発した。江藤にとって、有休はこういうコトにつかうものだった。 南米に持参したノートPCが故障しこともあって、ひたすら人の話をする旅になった。話にのめり込んで書く時間がない。「話がしたい、時間が足りない、という日々でした。言葉が正確にはわからなくても、サッカーの話ではなぜかコミュニケーションが取れました。」と江藤は振り返る。帰国後、残務処理を済ませて、退職した。

「何でも、楽しそうと思ったことは、まずやったほうがいいと思います」

退職するとすぐにヒッチハイクで全国の試合を見て回り始めた。「旅費に金を使うのはもったいない。」と考えたからである。友人からヒッチハイクのノウハウを教えられ、実践した。フリーの身には時間だけは余っている。試合を見ることに、意識も資源も集中させる。そして、どこに掲載されるか見通しもなく書き続けた。チャンスをつかむために、プレス・パスを持っている人を見つけては「ぼく、書けます」と声をかけた。

ある日、コパ・アメリカで出会ったカメラマンの紹介で、記事を書かせてもらうことになった。1999年11月21日のJ2最終節「大分トリニータ 対 モンテディオ山形」での悲劇的な結末をベースに、99年の大分の戦いをレポートしたのである。J2昇格の年、大分トリニータは最終節前にはJ1昇格の条件である2位にいた。そして、2位の座を競り合うFC東京に対して、圧倒的に有利な状況で最終節を迎えていた。試合は延長までもつれ込み、1対1の引き分けで終わった。大分の手の上に載っていたJ1の切符は掴みきれずにすべり落ちて行った。江藤の記事「プレッシャーなき戦い」は、サッカーのウェブマガジン(Football Weekly)に掲載された。これがプロとしての初めての記事となった。

「何でも、楽しそうと思ったことは、まずやったほうがいいと思います」

J2の記事を手始めに、様々な人の助けを借りて、J’s Goal等の場を得て、J1や日本代表の記事も書けるようになってきた。2006年のワールドカップでは、個人としてのプレス用パスも取れた。そして、間もなく40歳。稼ぐことに無頓着で来たこともあるのか、一心不乱に試合を見て回って書き続けた時代の情熱の貯金が、最近、少しすり減ってきた感じもしている。

「過去の壁は乗り越えてきた。」と自信はあるが、行く先が見えるわけではない。「今の観光庁長官 溝畑宏さん(自治省官僚から大分県に出向後、トリニータの社長も務めた)が語った“苦境さん、いらっしゃい”という言葉を思いだす。」

もがきながら書き続ける自分がいる。
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江藤高志(文筆業/journalist/JFA 公認C級コーチ) | 年表(自分史)創造コミュニティ Histy(ヒスティ)