ロールモデルになるような、各業界の第一線で活躍している方々をインタビューと年表で紹介するこのコーナー。第7回のゲストは、九州で活躍中の“地域活性の伝道師”井手修身さんです。

1963年生まれ。1986年熊本大学卒業。 同年、株式会社リクルートに入社し、ビル事業部署に配属される。1996年に地域活性事業部を立ち上げ、全国各地で地域活性のプロジェクトを仕掛ける。 2006年に独立。故郷である九州の活性化に特化した事業を立ち上げ、拠点を福岡に置く。地域活性の黒子を務める一方、2010年には、地域の集客・交流まちづくりと人材育成を行う中間支援組織としてNPO法人イデア九州・アジアもスタート。理事長を務める。
◇個人のブログ
 「人・企業・地域を元気に!いでっちの奮戦記」 
◇社長を務める会社
 観光・集客・特産品開発!バリューアップのイデアパートナーズ(株)

「“思いを言葉にする・共感する”楽しさに気付いてしまったんです。」

大学で就職活動するときは、どんなキャリアを考えていたのですか。

大学は工学部で建設工学をやっていたので、普通に考えたら建築関係の仕事で就職だったと思います。ただ、大学にいるうちに、どうも技術者として生きていくイメージが湧かなくなっていました。在学中に気持ちが入っていたのは、サークル活動でした。人形劇をプロデュース・舞台監督をする活動の中で、“思いを言葉にする・共感する”楽しさに気付いてしまった。そして、活動を形として実現するために人をまとめてチームとしてやっていくことがとても面白しろいと思いました。仕事でもこういうことがしたいなと思ったのです。経営といっていいかもしれません。それを目指す場として最初はどこに就職すればいいか考え選んだのがリクルートでした。

「入社3年目で、社内失業状態に!」

リクルートではどんな経験を積まれたのでしょうか。

1986年に入社すると、最初はリクルートが所有する不動産の開発・運営を手掛けるビル事業部に配属されました。当時のリクルートの社是は『自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ。』で、それが書かれたプレートが皆の机に上に置かれていました。最初は目の前にある仕事にがむしゃらに、邁進しました。面白かったです。 そうやって全力で走っていた社会人3年目の1988年、リクルート事件が起きます。最初に贈収賄の疑惑が報道されたのが川崎のコンピュータビルにかかわる話なのですが、まさに私がいた事業部が直結していました。そして私の取り組んでいたコンピュータビルの開発プロジェクトは当然、ストップになりました。入社3年目で、社内失業状態です。プロジェクトの再スタートに備えスタンバイ状態で、毎日机にいても何もすることがないのです。毎日呆然とした状況の中で、先輩に「これは時間を有効に使えるチャンスなのだ」と発想を逆転するアドバイスをもらえたのが大きな転機でした。よし、それならいろいろなことに首を突っ込んで一流と言われる人たちの話を聞いて回ろう、と自分で自分の道を見つけにオフィスから踏みだしました。 結局、プロジェクトは中止になりましたね。 時代は細川さんの日本新党が旋風を巻き起こした時がきます。『地方から日本を変える』というメッセージに共感して、松下政経塾の試験を受けたこともあります。結局、最終的に不合格になりましたけれどね。この時期に、私が最終的にやりたいことは地方の活性化がなんだ、という意識をはっきりさせることができました。 一方、会社では同期のトップで管理職に抜擢されていました。しかし、所属していた不動産関係の仕事は地域活性に直接結びきにくい。自信とキャリアのある仕事の道と先の見えない地域活性の仕事の道の分岐点で、迷いはしましたが、選んだのは地域活性の領域でした。その後、所属していた不動産関係の事業部は、MBOで別の会社として独立しました(現:ザイマックス社)。今でもたくさんの友人が働いています。私は地域活性の仕事を極めていくためにリクルートに残りました。

「やりたい仕事がないなら作ればいい。」

でも、当時、リクルートにはそういう事業部はありませんでしたよね。

33歳のときにリクルート社内で、地方へのUターンやIターンの支援を軸に地域事業の機運が盛り上がりました。いろいろな事業で芽生えた動きが“地方”というキーワードで結集しはじめたのです。私も中心メンバーの一人となって地域活性事業部を立ち上げました。やりたい仕事がなければ自分で作ればいいのです。この新規事業には社内公募で各事業のトップクラスの成績を上げていた強者が集まりました。リクルート全社の資源を使って地域の課題を解決する。我らが日本を変えるパイオニアだ!という気概でした。 私の第1号の案件、熊本県水上村のプロジェクトの第1回目の会議で、地元のおばあさんから「東京発のコンサルタントはいらない」といわれたのは忘れられません。従前のコンサルタントのやり方では済まされない。理屈ではなく現場に入って、実践して、成果を出す。トコトン現場主義で、奔走しましたね。結果、“水の上の学校”ができました。 ところが、地域活性事業部は、利益が出ないという会社の方針で結局5年で閉じることになってしまったのです。

「会社の制度や仕組みは、自分で変えられる。」

それが独立のきっかけですか。

いや、このタイミングではありません。地域活性事業部が廃止になる時、私は九州の責任者として九州支社にいました。そして九州の業績だけは、ずば抜けて高かったんです。それを周りに根回しして、支社長の応援も得て、九州だけ地域活性事業を継続できたんです。会社の制度や仕組みは、自分で変えられると実感しました。しかし、会社全体の経営を見れば、全国の標準化を強力に推進することで事業を強くする方針があります。間もなく九州にだけ残った地域活性事業は要注意の対象になっていました。 突破口は経営トップに直接提案できるRING制度でした。自分がやりたい事業のサバイバルの手段として、“地域の旅館・ホテル再生と地域活性事業を別会社にして、リクルートのOB人材をネットワークして解決する新しい手段”を提案しました。経営トップの承認を得て、スピンアウトの適用対象の第1号となりました。具体的には私が中心となって起業する会社(事業)に、リクルートが一部資本参加し、リクルートではできないマンパワーのかかるプロジェクトを解決していくというスキームでした。ところが、話が具体化していくと風向きが微妙にかわってきました。社内の力学の関係でだんだん制約が増えてきて、しまいには、会社配下の子会社、代理店のような形態でしか実現できないところにまでおいこまれました。会社と自分が対等の立場になるものだと思っていたことが難しくなってしまいました。どう折り合いをつけるのか正直悩みました。

「だれと信頼関係を構築できているのか。顧客が、家族が応援してくれた。」

いよいよ独立ですね。

高知に梅原真さんという、“ローカルを豊かにする日本一のデザイナー”がいます。 梅原さんに話した時、「ピンで立て。ピンで立った井手さんは応援する。」と。 頭をガッンと殴られた気持ちでした。40歳を過ぎてから起業するのだから、安定的な仕事の目途をたて、スムーズに事業をスタートさせたいと、色々打算するわけです。大丈夫かと悩みました。その最後に決心できたのは、嫁の一言。“いいんじゃないの。自分でやれるならやっていいんじゃないの。” と。これで踏ん切りがつきました。私が生まれたのは、熊本県の南阿蘇村。小さい頃、父は老舗温泉旅館の番頭をしてて、私が小学生の時、脱サラして、商店を始めました。その姿を見てきたことも伏線にあったと思います。家族からの支えがある、独立を決心しました。翌日、本社人事部に辞表を簡易書留で送りました。2005年12月、リクルートを退職しました。“心を元気にする”コーチングで有名な浪花の大谷ゆりこさんに、「いでっち(井手氏の愛称)、会社を立ち上げた時があんたの一番旬の時や。何名の人が応援してくれるか、新会社設立のパーティーを自作自演でやりなはれ。」と叱咤激励を受けました。頑張って、発起人には、地域の政治・経済のリーダーにも名を連ねてもらいました。忘れもしません、2006年1月26日、新会社の旅立ちを祝うパーティーには180人が集まりました。これまでの地域活性の仕事ぶりや実績の中で「井手さんがやるなら応援するよ」と。会社設立のパーティー会場で、その後の仕事の受注をいただきました。“信頼を裏切らない仕事をすること”、人と人の信頼関係構築こそ、私の事業の基盤であると確信しました。リクルートからの出資や業務提携は一切やめました。仕事としての付き合いはありませんが、先輩、メンバー、元社員の方々との人間関係は深いですね。

「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ。」

さらにNPOを設立したのはなぜですか。

会社の仕事と並行して開いている異業種交流会『イデア塾』がきっかけです。地域活性に関わりたいという人たちと知り合いになり絆が深まり、今までに2,500名以上の方が参加し、4,000名以上の方とネットワークできました。これを核にして、九州・アジアの集客・交流プラットフォーム、自主事業を展開するのがNPO法人イデア九州・アジアです。イデアパートナーズ㈱は地域活性を横から支援する黒子の存在です。しかし、田舎・まちに関わりたいというメンバーの意欲を実現するには、直接自分たちがプレーヤーになって実践する場が必要だと分かったのです。 NPOで、昨年から福岡市内で“バルウォーク福岡”という街を回遊するイベントを実施しました。バルとはスペインのBARで、1枚700円のチケットでピンチョス(つまみ)とワンドリンクを飲食店で提供してもらい、5枚チケットで77店舗から選んで、飲み歩きするというもの。1日で1万3千食を提供するイベントになりました。 このイベントを企画して、気づいたことがあります。私は、会社では社長として常にトップでリードしてきました。しかし、NPOでは、お互いの関係はフラットなんですよね。上下の関係ではない。私は、誰かがやりたいことを応援するフォロワーとして動くことがうまくいくことに気づきました。 地域活性を行う上で、自分の中にある”やりたい”指標があります。 ”「0」から「1」を創り出すこと”、”「いいね!」と思ったことをやり続けること” ”他人から「ありがとう」と喜ばれる喜びを得ること”です。 『自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ。』これがあれば、私のエンジンは尽きることがありませんね。

(インタビュー 2011/6/6 福岡・イデアパートナーズにおいて)
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井手修身(地域活性の伝道師/イデアパートナーズ株式会社 社長/NPO法人イデア九州・アジア理事長) | 年表(自分史)創造コミュニティ Histy(ヒスティ)