ロールモデルになるような、各業界の第一線で活躍している方々をインタビューと年表で紹介するこのコーナー。第15回のゲストは、株式会社メディアファクトリーで、デジタルメディアや映像事業の担当している伊藤誠さんです。

小さいころからアニメや漫画、特撮SFが好きだったという伊藤さん。大学時代に設立した「少女マンガ研究会」をきっかけにライターの仕事をするようになり、編集の仕事ができるとリクルートに入社。しかし、営業に配属。その後、自動車雑誌『カーセンサー』の企画やシステム構築、インターネットポータルサイト『ISIZE』の立ち上げなどに関わった後、2006年にメディアファクトリーに転職。現在はデジタルメディアと映像事業の担当役員をされています。伊藤さんのこれまでの歩みについては、ぜひ年表もご覧ください。

マンガとアニメ、特撮が好きなのは、大人になるまでずっと変わりません

現在のお仕事は?

メディアファクトリーは、アニメや実写映画、企画ものなどの映像制作、およびメーカーとしての販売機能を持った会社ですが、そこの映像部門の責任者をやっています。メディアファクトリーの中で売り上げが一番大きくて、中でもオタク向けのアニメが中心になっています。メディアファクトリー自体、何万人かのコアなターゲット層向けのコンテンツをつくることを会社の方針としていて、アニメに関してはいろいろなアニメに取り組んでいますが、今だと男性および女性のオタク層向けの深夜アニメが中心となっています。それ以外にも、キッズ向けのアニメやファミリー向けのアニメもやってはいますが、売り上げのシェアでいうとオタク向けのアニメがメインです。

小さいころからマンガやアニメが好きだったそうですね。

外に遊びに行くよりは家の中で本を読んでいるのが好きな子供でした。マンガとアニメ、特撮が好きなのは、大人になるまでずっと変わらないですね。

中学校ではマンガやアニメから少し離れ気味だったんです。ところが高校に入ったら、古典の先生がすごいマンガ好き。手塚治虫を尊敬していて、「火の鳥」などをテーマに読書感想会とかをやるような人だったので、「マンガを読んで人と語ってもいいんだ」と感動したのを覚えています。もともと少年マンガのほかに、妹が買っている少女マンガもけっこう読んでいて、竹宮恵子とか萩尾望都とか、そういう昔の少女マンガを高校のころはかなり読んでましたね。高校時代に『OUT』などのサブカル系のマンガ・アニメ好きの雑誌の存在を知って読みはじめ、マンガの評論みたいな方向に熱中していって、大学に入ったらそういうサークルがあったら入りたいと思っていました。

浪人して、予備校時代は寮に入って、勉強してるかマンガを読んでるかだけでしたね。テレビもないので、娯楽はマンガだけ。マンガの専門店みたいなところへ行って、マニアックなマンガをあさったりもしていました。大友克洋とかがちょうど出始めで、まだ『AKIRA』や『童夢』を描かれる前で、すごい新人が現れたぞって騒がれていたのを覚えています。予備校時代に、『ぱふ』(現在は休刊)というマンガ評論雑誌を読んでいて、その中の座談会で、大学のサークルが集まっていて、その中に早稲田の「少女マンガ研究会 早稲田おとめちっくクラブ」という男も含めて少女マンガを語るサークルがあって、その記事を読んでからこれに絶対入りたいなと考えて、受験勉強の励みにしました。

早稲田に入って、実際に「おとめちっくクラブ」に入りましたが、新歓説明会のときに、現在コラムニストやTVコメンテーターをやっている勝谷誠彦くんが偶然隣に座っていて、それからずっと今までつきあいが続いています。ただ、そのサークルに入ったら、実態としてナンパサークルみたいな人間が半分ぐらいいたので、そういうのではなくて、本当に少女マンガについて語りたい人たちが分派して「早稲田少女マンガ研究会」をつくりました。これは今でもあって、昨年創立30周年記念パーティーをやりました。それだけ続くぐらいのサークルになったので、つくってよかったなと思っています。ゼミと称して、毎回テキストとなるマンガを決めて、みんなで読んできて、喫茶店で語り合いました。年に2、3回同人誌をつくって、それにマンガを描ける人はマンガを描くし、描けない人は評論を書いて、コミケに持って行って売るみたいなことをやってました。前のおとめちっくクラブは、俺たちはそんなことを目指してるんじゃなくて、マンガを楽しく語れればいいんだ、それでカップルになれば成功だというナンパなサークルでしたが、研究会はコミケに出たりして、創作活動をやりたいという気持ちが強かったんです。

大学での専攻は教育学部で歴史専修でした。歴史はずっと好きで、小さいころから考古学者になりたかったので、だったら歴史の勉強をしようということで、そこはずっと変らず、早稲田の教育学部社会科は、文学部の歴史専攻と同じようなものだと聞いていたので、結果的にそこに入りました。それで歴史の先生になるのがまっとうでしたが、高校のころからスポーツ新聞の記者に憧れていました。大学のころも出版社や新聞社とかに入りたいなと思っていましたね。少女マンガ研究会の中の分派活動で、勝谷ほか数名と組んで出版社から仕事をもらって記事を書き始めたんです。彼は主に風俗ライター的な仕事をやってましたけど。『セブンティーン』という高校生の女の子向けの雑誌があって、そのころの『セブンティーン』は高校野球に力を入れていました。その『セブンティーン』の高校野球班で春と夏に甲子園や学校に取材に行くという仕事があって、高校野球が大好きだったので、編集アシスタントとしてやらせてもらいました。ちょうどPL学園の桑田や清原が出始めたころです。実際に地方の決勝戦の取材に行ったり、大阪に乗り込んで甲子園で取材したりできて、非常にやりがいがありました。

それ以外にもリクルートからライターの仕事を勝谷が営業してとってきて、『フロムA』の夏の臨時増刊号に「夏」というテーマでコラムを200本書く仕事をやりました。夏といえば…というお題で。「夏と言えば蚊取り線香」か、じゃあ蚊取り線香のうんちくを調べようとか、「夏といったら加山雄三だろう」と、加山雄三のブロマイドを入手して、その写真と加山雄三の若大将シリーズについて書くみたいな、そういうコラムを書く仕事もやってましたね。

あとは、出版もやりました。当時『見栄講座』というホイチョイプロダクションの本がヒットしていたので、これのマネをした『大学生人なみ講座』という企画を日本文芸社に出したら通って、単行本をつくりました。これがそこそこ売れたので、続編の『大学生ハッタリ講座』というのまでやったんですけど、こっちは売れなくて、その仕事はそれで終わりました(笑)。

仕事が増えてきたので、少女マンガ研究会の一部メンバーで“ブレーメンファイブ”という企画集団をつくって、お茶の水に事務所まで借りてやりました。それなりに皆で月数十万円の収入がありました。事実上の編集プロダクションとして、そのまま続けようかという話もあったぐらいで、おかげで大学は5年生までやってしまいました。今思えば、親には大変申し訳なかったです。

新しい仕組みを提案して形にするのはすごく楽しかったです

大学卒業後はリクルートに入られたんですね。

ライターの仕事の関係で、メディアファクトリーの現社長で当時リクルートにいた芳原と知り合いました。リクルートが当時『キャンパス センサー』という、大学生に直接情報誌を送り届けるサービスをやっていて、内容は今でいうフリーペーパーなんですけど、そこにコラムを書いたりしていたので、そういう仕事を続けたいなと思ってましたら、リクルートの人事担当が編集者にしてくれるというので、入社しました。が、人事の話はウソでした(笑)。
配属は、営業でした。しかも宅配便の配送の仕事でした。なぜ宅配便事業をリクルートが当時やっていたかというと、リクルートブックを全国の大学生に配送していたので、宅配便の業者のネットワークを持っていたんです。社内事業コンテストで、この配送のネットワークを使って普通の宅配の小荷物を安く運ぶという企画が通って、新規事業として立ち上がり、その翌年に営業担当としてそこに配属されたんです。採用担当は、今考えれば所属部署の確約などするわけないとは思うんですが、当時は純真でしたので、リクルートも出版の仕事があるし、編集の仕事ができると思って入ったんですよ。入ったのが1985年ですが、結局社内で編集という名のつく部署につけたのは1999年で、結局14年間は営業とか企画とか広告制作とか、編集とは全然違う仕事をしていました。

REXは、配送業者がリクルートブックを扱っている人たちなので、リクルートブックって配送業者にとって都合の良い商品で、届かなくてもあまりクレームは来ないし、扱いが荒くて多少よごれていても、まあ大丈夫なんです。そういう仕組みでお客様から預かった荷物の配送をやったので、ビンが割れたり、商品券がなくなったりとかクレームが続出。結局入った年の秋には事業が解散になりました。当時リクルートは通信ネットワーク系にシフトをしていたので、そのときその課に新人が4人いたんですが、私以外の3人はそちらへ異動になり、自分だけ残されて、事業終了の敗戦処理をやりました。

その後は『カーセンサー』に異動されたんですね。

注文住宅の広告営業を1年やった後、『カーセンサー』という車の雑誌の営業に異動して、中古車屋さんを回って広告をとってくるという仕事を1年ほどやりました。中古車屋さんって、そんなに品のいいお客さんではないので、「来るな!」と営業を断られるのは日常茶飯事。広告を出してくれても、売れないと「オタクにはだまされた、どうしてくれるんだ」とすごまれたり、昼間からお酒を飲んでいて、一緒にビールを飲もうとか、そういう業界だったので、非常にしんどかったですね。なかなか広告が売れなかったというのが一番大きいんですけど、営業よりも企画やマーケティングの仕事をやらせてほしいと希望して、企画の部署に異動させてもらい、そこからはしばらくマーケティングや広告企画立案とかをやってました。

割と新しいものが好きだったので、企画の仕事をしているうちに、デジタル系のことをいろいろ研究するようになって、パソコン通信で『カーセンサー』の物件情報を提供したり、制作システムのデジタル化も手がけました。『カーセンサー』は1ページに42台の中古車広告を載せられるんですが、昔は広告のページをつくるのに、全部車を物撮りして、小さい紙焼き写真を切り出して、貼り合わせて版をつくるという原始的なことをやっていたんです。これをデジタル化するために、大日本印刷さんと協力して、CATSという製版システムを開発しました。写真も当時はまだデジタルカメラがなかったですが、マビカというSONY製で1台20万円するようなアナログデータの電子カメラがあったんです。これを使って写真を撮って、データを取り込んで版をつくるのに使う仕組みを構築しました。流動性の高い中古車広告は鮮度が命なので、月2回『カーセンサー』を出すのに、カメラマンが取材に行って写真を撮り、普通の電話に音響カプラをくっつけて、ピーガーっと出先から画像データを送るということをやってましたね。最終的にはマビカをデジカメに置き換えて、週刊で出せる体制をつくりました。1990年代前半ぐらいのことです。『カーセンサー』の関西版を出すときには関西に住み込んで、広告単価が関東の半分の関西で、どうやってローコストで出せる仕組みをシステム化していくかを徹底的に考えてやってましたね。

『カーセンサー』には結局2000年までいました。私は以前は車が好きでなくて、『カーセンサー』をやるようになっても、普通の男性のように車の話で盛り上がるという感じには最後までならなかったですね。でも、そういう新しい仕組みを提案して形にするというのはすごく楽しかったし、どうやってマーケティングデータを収集するのかとか考えてやってました。当時は実際に『カーセンサー』に広告を出しても、その効果がわからないという感じだったので、ハガキを使って効果測定する仕組みを考えてみたり、編集者ではなかったですが、中古車屋さん向けに4ページぐらいの『カーセンサーニュース』というニュースペーパーを作って、毎回自分で記事を書いたり、大学時代の友人でフリーライターになったやつがいたので、彼に記事を書かせたりして、異動するまで1年半ぐらいは出し続けました。その後は、広告の制作システムを担当しつつカーセンサーのNET版として「CarSensor on the Net」を立ち上げました。

そして、1998年から1999年にかけて、リクルートがポータルWEBサービスに”ISIZE”というブランドで本格的に乗り出したに際に「ISIZE CARLIFE」の立ち上げ、そしてISIZEの編集全般を担当するISIZE編集グループマネージャーを務め、ようやく念願の編集業務に就いたわけです。ただ、思えばその前から結果的にコンテンツの編集的なことはやっていたなあと思います。自分で誘導したわけですが。

学校の先生にならず、だまされてリクルートに入ってよかったです(笑)

その後は、『マーケティング局』をへて、メディアファクトリーに移られたんですね。

ISIZEは、鳴り物入りでスタートした割には、2001年にはサービスから撤退することが、2年で決定してしまいました。そして、その後はマーケティング局で雑誌の販促やフリーペーパーの配送システム管理などの仕事となりました。仕事内容が、自分が本当にやりたい事とどんどんずれていく感じがしたので、メディアファクトリーに行きたいという話を、今の社長の芳原にして、じゃあ来いよって話になったので、行くことにしました。

もともとマンガやアニメは社会人になってからもずっと平行して好きで、1990年代のなかばぐらいからは、PCゲーム、それもいわゆるエロゲーに興味を持つようになりました。もともとNECの98とかのPCでシミュレーションゲームをけっこうやってたんですが、あるとき友達に「こういうゲームがあるよ」って教えてもらって、「痕」「雫」といったノベルゲームやってみたらすごい面白かったので、すぐにハマりましたね。当時はエロゲーが全盛期に入るところで、いわゆるオタク系で能力がある人材が流れ込んでいる感じで。新興のゲームブランドがどんどん立ち上がっていく時代。そこからアニメ化もされてヒット作が生まれる。そういう時代でした。リクルートからメディアファクトリーに移った友人に、「こんなすごいゲームがあって、これは絶対いける」とか話していたら、実際にそれがアニメになってヒットしたりしたので、「伊藤さんはうちに来たほうがいいんじゃない」って言われたりしていました。その後、実際に芳原社長から誘われて、メディアファクトリーに来ることになりました。

メディアファクトリーでは、まずは『コミックフラッパー』という青年向け月刊誌に部付き部長として関わって、当時なかなかビジネス的にしんどかったので、これをどういうふうにリニューアルして変えていくに取り組んで、2008年のリニューアルと同時に編集長になって、3年ほどやりました。編集長の仕事は、権限も大きく、新しい作家の発掘・新連載スタートや作品のアニメ化と多岐にわたる仕事に携われて、大変面白い仕事でした。

デジタル系も並行して担当して、ガラケー電子書籍配信をスタートに、iPhone発売以降は電子書籍を中心に、アニメ化された作品のライトノベルとコミックが、一つのアプリの中で見ることができて、コンテンツを買えるというアプリを開発しました。『コミックフラッパー』の編集長とデジタルメディア局を兼任していたので、両方のノウハウを使ったアプリを開発したりしていましたね。マンガのコマ割のところに声優を使ってアテレコしてセリフを音声で聞けるようにしたり、アニメのキャラクターから実際に電話がかかってくるような演出をして、もっとたくさん音声を聴きたければお金を払ってもらうという仕組みをつくったり、そういういろいろなトライをしていました。

メディアファクトリーでは自分の好きな仕事ができるようになったということですね。

そうですね。最新のマンガやアニメ、ライトノベルの状況がわかってないと、どういうアニメをつくるのがいいかジャッジができませんし、過去にたくさんアニメを見たりマンガを読んだりした経験が役に立っているケースがけっこうあります。結果的にこの仕事に就けてすごくラッキーでしたね。子供のころの自分から見たら、マンガ雑誌の編集長をやれるとか、アニメをつくる責任者になれるとか、夢物語な話で。どちらかだけでもやりたいなと思っても、そう簡単になれるものではありません。学校の先生にならずに、だまされて(!?)リクルートに入ってよかったですよ(笑)。

自分にとって今まで転機になったことは?

一つは『カーセンサー』で営業マンをしていたときに、企画部門を希望して、移らせてもらったことですね。その次は、自己申告で『カーセンサー』を出て『ISIZE』に移ったことです。あのまま『カーセンサー』にいたら、カーセンサーのフリーペーパー化とか、新雑誌の創刊とかまったく違う道を歩んでいたと思います。三つ目がメディアファクトリーへ行くって決めたことですね。当時のメディアファクトリーは。リクルートと比較したら社員数も比べ物にならない中小企業で、一度ポケモンのカードゲーム販売で素晴らしい業績をあげたのですけど、その後厳しくなって経営再建中でした。結婚して子供もいましたので、妻からは「大丈夫なの? 多少面白くないと思っても、リクルートにそのままいたほうがいいんじゃないの」って強く言われましたが、社長が自分を呼んでくれたということと、メディアファクトリーへ行ったほうが絶対自分のやりたい仕事ができるということで、自分の意志を押し通しました。難易度でいうと、そこが一番高かったですね。そのときにすでに46歳だったので。

自分で動いて自分で仕事をつくり出すことが大事です

今までで大きかった出会いは?

結果的に一番大きかったのは、大学時代に今の社長の芳原に出会ったことですね。大学時代にフリーライターをしていたときに、当時リクルートの社員だった芳原と知り合って、発注主とライターという関係でしたけど。今メディアファクトリーで出版事業の責任者をやっている斎藤も、同じくフロムエーの編集者で仕事をいただいていました。そういう人たちと学生時代に知り合えたのは大きかったです。勝谷と知り合ったのも大きいですね。彼はマスコミ志向が非常に強かったので。彼のダイナミックな動きがなければ、普通に少女マンガ研究会で楽しく過ごして、もしかしたら先生になっていたかもしれません。そうして、いわゆる出版業界にかなり近いことを学生時代に経験できたので、大学時代の出会いが今でも生きています。

今までを振り返ってみて改めて思うことは?

ラッキーだったということですね。マンガ家になりたいとは思わなかったんですけど、マンガの編集になりたくて、実際にマンガ雑誌の編集長になれました。編集長って一つの雑誌を全部取り仕切れるので、なってみて非常に面白さを感じました。映像やアニメビジネスは、一作品あたりの投資金額が大きいので、あまり冒険ができないんです。ところがマンガ雑誌で連載を一本を立ち上げるのに必要なのは、マンガ家の原稿料だけで、原稿料は高い人でも普通は1ページ2~3万円くらいなわけです。30ページ書いてもらっても、100万円かからないだけの投資で連載が始められるんですね。そういう新しいコンテンツをいくらでも生み出せるポジションはとても面白かったです。編集長は一度やったらやめられないみたいなことをいいますけど、本当だなと思いましたね。だから編集長をはずれて、一時期デジタル事業専任になったときは少しショックでした。

将来やりたいことは?

今後はデジタル部門と映像部門をもっと融合させていきたいですね。アニメのパッケージビジネスで、DVDを買ってもらうことで収益を得るというビジネスは限界に近づいてきていると思うんです。それでもある程度は生き残るとは思いますが、もう少し新しい形のビジネスモデルをつくりたいですね。それが何かというのはまだ明確なアイディアはないですが。

マンガやアニメ関連の仕事をやってみたい人にアドバイスするとしたら?

好きなものは徹底的に好きになって、語れることが大事ですね。表面をなでるのではなくて、ちゃんと読み込んで著者の意図などをしっかりわかることが大事だし、基本的にそういう仕事につきたいと思ったら、その気持ちを持ち続けないとだめだと思います。私も30代のときは、こういう仕事に就けるとは全然思っていなかったですが、好きだという気持ちはずっと持っていましたし、それを公言していました。「オタクですから」みたいな感じでずっと言ってましたから、そういうのを隠したり、人に言わないよりも、言ったほうがいいです。どこに幸運がころがっているかわかりませんから。普段から言い続けていたおかげで、社長の芳原が思い出して、伊藤を呼んでみようと思ってくれたわけで、そういう意味でもアピールは大切ですね。高校野球もすごく好きで、実際に試合を見に頻繁に甲子園に行っていて、周りにも言ってたから、たまたま高校野球の取材のアルバイトがあったときに声をかけてもらえました。実際に甲子園球場の選手通路とか、インタビュー台で、試合が終わったあとに監督や選手が汗をふきながら話をしているところに取材で入ることができました。ある意味、夢のような出来事です。普段からアピールしていたことで運をつかめたのだと思います。

あとは基本的に楽観的なので、「ああだめだ」とか、いじいじ考えないように、常にポジティブで前向きに考えようと思っていますね。意に沿わない仕事のときも、でもこれはこうやったら面白いなと考えたり。たとえば、マーケティング局で情報誌の販売促進部隊のおばちゃんたちのIT化を手がけたときも、やってくれと言われてやったわけじゃなくて、自分で提案してやったんです。当時業務日報をファックスで毎日送ってきていたのですが、届いたFAX紙が丸まって大量に転がってあって、これでは誰も見ないよなみたいな感じだったので、グループウェアを入れて掲示板的なところに書き込んでもらってみんなの意見を集約したほうがいいんじゃないか、基本的な日報はエクセルのようなシートに毎日書き込むようなものをつくったほうがいいだろうと思ったので、自分がやりましょうと提案しました。60人のメンバー分の端末を全部レンタルでできるようにして、グループウェアを選定導入し、専門学校に教育の依頼をして講習会を実施しました。これらを全部一人でやりましたので、それはそれで面白かったし、いい経験になりました。誰かに言われてからやるのではなくて、自分で動いて自分で仕事をつくり出すことが大事だと思いますね。
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伊藤誠(株式会社メディアファクトリー 執行役員) | 年表(自分史)創造コミュニティ Histy(ヒスティ)